横綱松誕生の経緯
昭和54年、あるテレビ番組で影向の松を「日本一」と紹介したところ、香川県さぬき市志度町にある「岡野松」こそ日本一と反対の声があがり、日本一の称号を巡って両者のあいだで論争が起きました。一年近く論争が続いたある時、檀家の大相撲行司の年忌法要が善養寺で行われました。そこに参列していた志度町出身者と住職の間で、またも松の優劣をめぐって議論が紛糾しますが、たまたまそこに居合わせた大相撲立行司の木村庄之助さんが、「どちらも日本一につき東西の横綱に」との名裁きを下して、論争は決着を見ました。この経緯を耳にした大相撲協会の春日野理事長(もと栃錦関)は、自身が小岩出身でもあったことから、地元のためにと影向の松を東の横綱に推挙するとともに、幹の太さに合わせた大横綱を奉納してくださいました。この大横綱と、小岩駅のコンコースに建立されている栃錦像の型が、現在もお寺の仁王門に飾られています。また当時、境内では毎年子ども相撲大会が行われていましたが、昭和55年から平成2年まで春日野親方が一門の関取衆を連れて参加され、ちびっ子力士たちを励ましてくださいました。境内の横綱山は、この時の土俵の土を盛り固めて作ったものです。
報恩軍配物語
当寺には大相撲行司・六代木村宗四郎さんの白木の軍配が奉納されています。7歳で行司の道に進んだ宗四郎さんは、昭和32年、53歳で三役格行司に昇進しましたが、巡業中に脳出血で倒れて闘病生活に。リハビリに励む宗四郎さんへ、ひいき筋より「早く回復して、この軍配に漆を塗ってから、土俵で三役相撲を裁いてほしい」と白木の軍配が贈られました。宗四郎さんはこの軍配を心の支えに再起を夢見ますが、12年に及ぶ闘病の末、夢叶わぬまま帰らぬ人となり、妻のハナさんは「涙のもと」と、形見の軍配を菩提寺である当寺の住職盛雄和尚に預けました。
5年後の昭和48年、当寺で行われた元大関能代潟の年忌法要の席で住職からこの経緯を聞いたのが二代式守伊三郎さん。伊三郎さんは宗四郎さんの後輩で、父代わりとして世話してもらいながら、その恩を返せなかった後悔を涙ながらに語り、ぜひその軍配で三役相撲を裁きたいと申し出ます。通常幕下で使われる白木の軍配を幕内で使うのは、格式を重んずる相撲界では異例のこと。同年の秋場所十日目に招待された住職は、不安のなか桟敷席でその時を待ちます。そしていよいよ三役相撲、登場した伊三郎さんの手にはあの白木の軍配が握られ、晴れ舞台で見事二番を裁いて、宗四郎さんの恩に報いたのでした。
盛雄和尚はこの物語を後世に伝えるため、昭和55年に和讃という七・五調の仏教歌にまとめ、平成元年にはこれを刻んだ石碑「報恩の碑」を境内に建立しました。